京橋のフィルム・センター見学会

murakawahide2007-10-13





9月15日、映画プロジェクトの学生たちと、京橋のフィルム・センターに出かけました。私の学生時代は、ビデオもDVDもなく、映画の勉強はひたすらここで上映されるフランス映画特集や、イギリス映画特集、あるいはジョン・フォード特集など、ここが映画学徒の聖域?でしたが、今はいろいろな場所で映画情報を手に入れているのでしょうか、映画との出会いは、少し、新鮮味に欠けているかもしれません。
 でも学芸員岡田秀則さんに展示物の説明を受け、授業で受けた日本映画史の本物のグッズを見て、大感激だったようです。
 さらに一時から松本清張原作、野村芳太郎監督の「張り込み」を見ました。じっとりと汗ばむような刑事たちの仕事ぶりをデジタル映像とは違うフィルムの画面から感じ取ったようです。

女性監督の魅力

 猛暑の中、時間を見つけては試写通いしています。映画を見る前は、頭の中を白紙にしておきたいので、情報は見ないようにしていますが、見終わった後、「うまいな」と感じる作品は女性監督の場合が多いですね。
 たとえばデンマークスサンネ・ビア監督。この人は2007年アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた「アフター・ウェディング」で知られていますが、彼女の「ある愛の風景」を見て、思わずビビッと来ました。(笑)出来の良い長男と結婚して子供も二人いるサラ。夫のエリート兵士、ミカエルはアフガニスタンへの駐留が命じられます。(それにしても最近の優れた女性映画は、戦場や紛争地を果敢に取り上げる傾向が強いですね)そしてミカエルはアルカイダに捕らえられ、同じように捕まった自国の兵士を殺すように命じられます。同僚を殺すか、自分が殺されるかの中で、ミカエルは生き残る道を選びます。死んだと思い、葬儀まで出したサラの前に、虚脱した夫が姿を現します。この映画の基本路線は家庭メロドラマですが、ミカエルには、定職もなく刑務所暮らしをするような、家族の厄介者のヤニックという弟がいます。出来の良い兄と、何をやっても駄目な弟というのはエリア・カザンジェームズ・ディーンをスターにした「エデンの東」の場合もそうです。ミカエルがいなくなって、サラや家族たちを支えたのはヤニックでもあったのですが、ミカエルはサラとヤニックの仲を疑います。そしてミカエルを支えてきた堅牢で幸せな世界が次々と瓦解してゆきます。
 スサンネ・ビアのすごさは、戦場の過酷さと日常的な生活という、これまでだとどちらかの世界に傾きがちな世界をたぐいまれな演出力で見せ、凡百の家庭メロドラマの域を超えていることでしょう。そして現代という時代に対する批判。映画というものは、時代を感じ取るセンスがとても必要と感じます。 
 後期には「映像文化とジェンダー」の授業が始まります。紹介したい女性監督が増えたので、後期は大変、楽しみです。
 また、文化庁映像スタッフ育成事業に参加した木場真理子さんの汗と涙と感動のインターンシップ体験も城西国際大学メディア学部のWebに載っていますので、あわせて読んでください。

篠田正浩講演会

 東京紀尾井町キャンパスで開かれた城西国際大学メディア学部映像講座「篠田正浩講演会 日本の映画音楽を語る 早坂文雄から武満徹へ」(7月14日)が、ホール一杯の観客を集めて終了した。
 戦後の日本映画音楽を代表する巨匠の歩みを数々の映画史的事件に触れながら監督自身の「乾いた花」、「心中天網島」、「はなれ瞽女おりん」の映画音楽をわかりやすく解説して、観客を魅了した。
 今回の企画には村川ゼミ(プロジェクト3)の学生が参加。イヴェントの体験授業を実習した。メディア学部の私の授業は、映画史上の名作からアニメーションまで、ともかくも出来るだけ多くの作品に触れてもらうことを前提にしている。従って私のプロジェクトに参加する学生は、メディア学部の私のカリキュラムで、数多くの映画作品に触れ、それを調べ、文章を書くことが最低条件になっている。
 今回の企画に参加するために、黒澤明の「七人の侍」(早坂文雄音楽)、溝口健二の「近松物語」(早坂文雄音楽)、「心中天網島」(武満徹音楽)、「はなれ瞽女おりん」(武満徹音楽)を見て、レポートを書いてもらった。
 私の授業を受けている学生でも、映画史を勉強する必要がわかっていないと思われる学生がいる。プロジェクト3では、メディア学部映像講座を含め、他に文化庁映像スタッフ育成事業、キネマ旬報主催「映画プロデュサー&クリエイター養成講座」などの現場にインターンシップで参加する映画研修を実地している。現場を体験して、いかに映画知識が必要なことか、映画作品に触れることが、いかに重要かを理解するようになる。
 私に言わせれば、このことにいつ、気付くかで、本人の成長も変わってくるように思われる。現場の真っ向勝負に触れて、目の色が変わってくるようになれば、自ずから学習の方向が見えてくるようだ。
次回では、現場に出て、目の色が変わってきた学生たちを紹介してみたい。

2006年のベストテン

 キネマ旬報の2006年ベストテンが発表された。こちらは投票していないので、気楽に選者と選ばれた作品表を眺めているが、これが結構、楽しい。選者の評価する監督としては、圧倒的にクリント・イーストウッドだ。外国映画ベストワンが「父親たちの星条旗」、次が「硫黄島からの手紙」。イーストウッドの長い生涯を考えると、底力というか、映画人としての誇りのようなものがうかがえた。3位がポン・ジュノの「グエムル 漢河の怪物」、その後はアン・リーの「ブロークバック・マウンテン」、ケン・ローチの「麦の穂をゆらす風」、アレクサンドル・ソクーロフ「太陽」、ベット・ミラーの「カポーティ」、ジョージ・クルーニィの「グッドナイト&グッドラック」などが上がっている。妥当なところで嬉しくなった。ベストテンの順位をつけるのは難しい。残念なのはミヒャエル・ハネケの「隠された記憶」をベストワンに上げているのは、河原晶子さんだけ。ハネケは期待する監督だし、この作品もすごく良かったのに!
 「硫黄島からの手紙」、「太陽」、それに「力道山」など外国監督が日本を舞台にした映画を作るようになった。それはそれでいいことなのだが、タブーとされてきた昭和天皇をロシアのソクーロフが描いて、公開されたという事実は、重い。アメリカも上位作品は、第二次世界大戦赤狩り事件だ。湾岸戦争を描いた「ジャーヘッド」は、ようやくアメリカの現実に迫った作品が出てきたなと思うが、さまざまな立場から描かれたヴェトナム戦争映画に比べれば、映画の力は弱くなったと思う。この辺にもハリウッドの力の衰えを感じた。現代を描いたアメリカのすごい映画を見たいものである。
 その点、ポン・ジュノの「グエムル」のとてつもないすごさは、韓国映画が今後、まだすごいものを生み出す力をもっていることを示したのではないか。今年、一番圧倒されたのが、この作品である。
 

私の授業2

 私の授業「映像文化とジェンダー」では、女性監督の仕事を紹介しています。
現在、その動きがとても注目されているジュリー・ティモア。彼女はオペラからミュージカル、映画まで手がけるオールマイティの演出家で、まさに女性の時代を代表する演出家ですが、ミュージカル「ライオン・キング」では仮面をかぶった動物が舞台を跳躍するという画期的な舞台を作りました。最近はメトロポリタンオペラで「魔笛」を演出したのも話題になっています。彼女の映画の中でメキシコの女流画家フリーダ・カーロを描いた「フリーダ」は、メキシコという異文化やリベラやシケイロスなどメキシコを飾った壁画の時代、トロツキーなど1920年代の革命の時代、そして激しく時代と共に生きた女流画家の一生を描いています。
 あるいはハリウッド女優の本音を綴ったロザンナ・アークエットの「デブラ・ウィンガーを探して」(家庭事情を愚痴ったりしてます。あまり幸せそうでない人もいます)、ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」、松井久子監督の「折り梅」などです。
 これらの作品はよく、知られていますが、トルコの内部からクルド問題を扱った、ハンダン・イペクチの「少女ヘジャル」も日常生活に顕在するクルド問題を扱った秀作でした。トルコの退職した判事が、偶然のことからクルド人の幼女を預かることになって、クルドを理解しようとしてこなかったトルコ人の問題を監督は観客につきつけます。クルド人の監督といえばバフマン・ゴバディが「酔っ払った馬の時間」、「亀も空を飛ぶ」でクルドの絶望的な状況を描いて、世界に衝撃をあたえましたが、イペクチ監督の場合、わかりやすい語り口で民族問題を展開していました。
 松井久子監督も認知症になったおばあちゃんを引き取った家族とおばあちゃんの関係を丁寧に描いています。家に同じように認知症になった祖母や祖父がいることから、映画に自然に入るようです。認知症の家族を抱えながら、仕事を続ける母親の姿を理解してもらおうと思いますが、男子生徒は「息抜きでしょう」などと言って、どうもそういう視点はわかりずらいようですが。
 インドのミラ・ナイール監督の「サラーム・ボンベイ」(88年)も、ハイテク産業で脚光を浴びる中産階級のインド人の姿と違って、20年程前の話ですが、売春して生きる女たちやとストリートチルドレンの姿を描いています。
 女性監督たちの語り口は、日常生活のデティールを積み重ねて、どちらかというとわかりやすく優しい。それがとても新鮮であるようです。
 そして、女性監督がこんなに存在しているなんて、こんなに活躍しているなんて全く知らなかった。世界の現実を知らなかった、「豊かな日本に生まれてきてよかった」などと学生たちは感想を綴っています。

イングマール・ベルイマン

 私の授業では、イングマール・ベルイマンにようやく焦点を当てることが出来るようになりました。これまでですと知って欲しい監督を、何はともあれ理解させる?という豪腕でやってきましたが、最近の学生は知的スノッブというか、わからなくても背伸びをして、知ったかぶりをする層が非常に少なくなって、訳知りで薀蓄を傾ける若者や、早熟な高校生レベルがいなくなっているような気がします。映画文化を支える若手軍団が育たないなんて、由々しき大問題ですが。
 たまたま、ベルイマンが85歳に撮った「「サラバンド」が公開されました。現在のベルイマンは88歳ですが、孤高の北欧の風景の中で展開される、大声で罵りあうけたたましいまでの親子喧嘩やら、老境に入って、かっての愛人との関係とか、全く枯れることのない激しさで映画作りをするベルイマンに腰を抜かさんばかりに驚いてしまいました。
 ベルイマンの映画監督としての仕事は「ファニーとアレクサンデル」(82年)が最後で、その後三島由紀夫の「サド公爵夫人」を演出した舞台を東京で見ていますが、典雅でかつエロチックで、演劇人ベルイマンの真価を目の当たりしたものです。ベルイマンも東京に来てたわけだから、会っておけばよかったとつくづく思います。
 ともあれ、私たちの時代は、ベルイマンは、宗教的なテーマや難解さもあって、孤高の神様みたいな存在でした。しかし、こちらも年を食ってくると、謹厳で近寄りがたかったベルイマンも、主演女優とほとんど出来ちゃって、5度も結婚し8人も子供がいるという生身の人間味の方に興味がわいてきます。
 学生たちには「仮面/ペルソナ」や「鏡の中にある如く」ではなく、「野いちご」、「秋のソナタ」あたりから始めますが、あらためてベルイマンはおしゃべりで、家族のすったもんだ、夫と妻、それぞれの愛人、娘と母親の関係が饒舌に語られています。この辺の問題は、人間が存在する限り、いわば永遠のテーマですから、ベルイマンはけして古くならないと学生たちと共に再確認しました。難解な宗教的なテーマよりも、家庭問題に悩むベルイマンから入っていった方が、今の学生たちには通じるようです。
 さて「サラバンド」ですが、リブ・ウルマン演じるマリアンが30年前に離婚したかっての夫、ヨハン(エルランド・ヨセフソン)を訪ねるところから始まります。二人の間には精神を病む娘とオーストリアに移住した二人の娘がいたのですが、長い間、二人は会っていなかった。弧絶した様な風景の美しい別荘で、かっての夫婦は穏やかな時間を持ったかのように見えますが、マリアンは、ヨハンと息子ヘンリックの争いに巻き込まれます。音楽家を目指す孫のカーリンをめぐって、すざましい親子喧嘩。ここではバッハの無伴奏チェロ曲やオルガンのためのトリオ・ソナタが壮重に流れます。ヘンリックに反発するカーリン。絶望から自殺未遂するヘンリック。ヘンリックへの憎悪を剥き出しにするヨハン。ヨハンはマリアンに救いを求めます。それにしてもベルイマンのこの激しさは、どこから来るのでしょうか。家庭問題の悩みといっても、ここまでくれば、神々の壮絶な世界のような気もするのですが。
 ところで他に「映像文化とジェンダー」という授業を持っています。「女たちの世界はわたしの世界だ」と言ってきたベルイマンを、女性監督の描いた女の世界と、いつか比べて見たいと思ってます。

 
 

私の授業1

私の授業を受講する学生は、大きく分けると二つに分かれます。         映画監督や脚本家などの映像クリエイター志望の学生、製作プロダクションで映像スタッフを希望する学生、配給会社に就職したい学生など、映画や映像関連の業界で働くことを強く志望する学生。もう一つは一般会社に就職を希望するけれども、映画が大好きで、もっと映画文化を深く理解していきたいというグループです。こうした学生は一般会社に就職して、広報や宣伝を志望する学生が多いようです。
 映画を学ぶために「映画史」を私は最も重要視してますが、もう一つ、映画の持つ現代性、いわばジャーナリズムとしての性格も重要視しています。前期の授業で行っている「作品研究Ⅱ」は、「地雷を踏んでさようなら」、「メゾン・ド・ヒミコ」、「パッチギ」などを取り上げました。五十嵐匠監督の「地雷を踏んでさようなら」は、カンボジアで亡くなった戦場カメラマン、一ノ瀬泰造を追ったものです。いわゆる戦争映画スタイル特有の大型場面の戦争映画ではなく、手持ちカメラでブラブラ画面が揺れる場面に新鮮さを感じたようですが、一ノ瀬泰造という若者の生き方や、カンボジアやヴェトナムなどアジアへの関心を持ってくれたようです。
 毎回、映画や授業の感想を書いてもらいます。(大体10分くらい。長い人は、休み時間も入れて20分くらい)結構な分量を書いてくる学生や、こちらが思いも付かなかった視点で書いてくる学生がいて、私自身が刺激されることが多いのですが、これらを導入口として、現代という時代を読み取ろうとする授業です。
 以前よりも映画から時代の空気感を感じ取る人は少なくなりましたが、優れた映画には、必ず時代を読む先見性があります。現代史など学生には、ピンと来ない映画もあるようですが、限られた時間内で書く能力も身に付けてもらおうという、こちらの魂胆もありますが、時代を読み取る、空気感を読み取る学生たちの感性に毎回、新鮮さを感じています。