私の授業2

 私の授業「映像文化とジェンダー」では、女性監督の仕事を紹介しています。
現在、その動きがとても注目されているジュリー・ティモア。彼女はオペラからミュージカル、映画まで手がけるオールマイティの演出家で、まさに女性の時代を代表する演出家ですが、ミュージカル「ライオン・キング」では仮面をかぶった動物が舞台を跳躍するという画期的な舞台を作りました。最近はメトロポリタンオペラで「魔笛」を演出したのも話題になっています。彼女の映画の中でメキシコの女流画家フリーダ・カーロを描いた「フリーダ」は、メキシコという異文化やリベラやシケイロスなどメキシコを飾った壁画の時代、トロツキーなど1920年代の革命の時代、そして激しく時代と共に生きた女流画家の一生を描いています。
 あるいはハリウッド女優の本音を綴ったロザンナ・アークエットの「デブラ・ウィンガーを探して」(家庭事情を愚痴ったりしてます。あまり幸せそうでない人もいます)、ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」、松井久子監督の「折り梅」などです。
 これらの作品はよく、知られていますが、トルコの内部からクルド問題を扱った、ハンダン・イペクチの「少女ヘジャル」も日常生活に顕在するクルド問題を扱った秀作でした。トルコの退職した判事が、偶然のことからクルド人の幼女を預かることになって、クルドを理解しようとしてこなかったトルコ人の問題を監督は観客につきつけます。クルド人の監督といえばバフマン・ゴバディが「酔っ払った馬の時間」、「亀も空を飛ぶ」でクルドの絶望的な状況を描いて、世界に衝撃をあたえましたが、イペクチ監督の場合、わかりやすい語り口で民族問題を展開していました。
 松井久子監督も認知症になったおばあちゃんを引き取った家族とおばあちゃんの関係を丁寧に描いています。家に同じように認知症になった祖母や祖父がいることから、映画に自然に入るようです。認知症の家族を抱えながら、仕事を続ける母親の姿を理解してもらおうと思いますが、男子生徒は「息抜きでしょう」などと言って、どうもそういう視点はわかりずらいようですが。
 インドのミラ・ナイール監督の「サラーム・ボンベイ」(88年)も、ハイテク産業で脚光を浴びる中産階級のインド人の姿と違って、20年程前の話ですが、売春して生きる女たちやとストリートチルドレンの姿を描いています。
 女性監督たちの語り口は、日常生活のデティールを積み重ねて、どちらかというとわかりやすく優しい。それがとても新鮮であるようです。
 そして、女性監督がこんなに存在しているなんて、こんなに活躍しているなんて全く知らなかった。世界の現実を知らなかった、「豊かな日本に生まれてきてよかった」などと学生たちは感想を綴っています。