中国映画の思い出 謝晋さん

 中国の謝晋監督が亡くなった。日本でも多くの作品が紹介された巨匠だった。10月28日、享年85歳。海外の映画祭や日本でインタビューをお願いしたが、お会いするととても話しやすい巨匠だった。


 その後、中国映画のことをずっと考えていた。それも中国映画が海外に紹介される節目節目をいろいろな映画祭で目の当たりにしてきたためかもしれない。


 文革後の第五世代が海外で良く知られるようになったのは、陳凱歌「黄色い大地」からだろう。中国の開放政策が始まって、中国代表団や中国映画人が話題を呼んでいた。1985年の香港映画祭は、この「黄色い大地」が上映されるという。お目当ては陳凱歌だった。当時の香港映画祭は中国映画のショーケースであった。そして香港自体も、1997年の中国返還が現実味を帯びて語られていた時期だった。


 日本では文革は、マスコミの間でもてはやされ、若い映画人たちはゴダールの「中国女」や「東風」に浮かれ、マオイズムがファッショナブルに取り上げられていたが、文革時代の中国映画は、日中映画協会などを通じて、細々と上映されるくらいで、一般的にはあまりなじみはなかった。


 謝晋さんも「舞台の姉妹」(64)、「天雲山物語」(80)などが紹介されていたが、文革時代、政治に翻弄される庶民やインテリの悲劇を描いた「芙蓉鎮」(87)によって、世界的に注目されるようになった。この謝晋さんと陳凱歌監督を日本のマスコミは、文革時代の監督、その世代を批判する若い世代のような形で取り上げたので、この二人のそれぞれの姿勢がとても注目されていた。

 当時の陳凱歌は、のぼり行く龍のような勢いと自負がみなぎっていた。香港映画祭では、中国代表団は皆さん固い表情で緊張していたが、その中で彼はアタッシュケースを下げて、赤いベストを着ているという風に、少しおしゃれだった。(張芸謀は「黄色い大地」のカメラマンとして注目されていたが、言動が話題になるというタイプではなかった)その一年後、日本で「黄色い大地」が公開されるというので、お会いしたら、Tシャツを着こなし、英語は流暢に話すし、スピルバーグに会ったなど、ものすごく変身していたのにビックリした。



 お二人は、中国映画を代表する監督として、海外の映画祭に招待されていたので、お話を伺う機会は多かった。謝晋さんにヴェネチア映画祭でお会いした時は、天安門事件の時で、西側のマスコミが謝晋さんに殺到していたが「中国は大丈夫」と、悠然と構えていらしった。


 その後、台湾出身の白先勇の「諦仙紀」を映画化した「最後の貴族」で、また、お会いした。この映画は国民党高級官僚の娘として育ち、アメリカに渡った高等教育を受けた令嬢がどのような運命をたどったかという話である。前作の「芙蓉鎮」が「豚になっても生きろ」という文革時代の中国人の生き方だとすれば、作風がかなり違っていた。もっともプリンストン大学で知り合った中国人や韓国人女子学生の生き方に重ね合わせて見たので、私にはこの映画はとても臨場感がありました。

 
それから日中友好条約締結15周年記念作品「乳泉村の子」。これは中国残留孤児を中国の側から描いた作品で、謝晋監督の大衆映画路線映画といえるかもしれない。

 文革時代を描いた作品は、もう一本あって、文革村八分にあう女性を助ける老人の姿を厳しい自然の中で描いた「犬と女と刑老人」(93)も、格調の高い秀作だった。

 
1995年には中国映画史上最高の巨費を投じたという『阿片戦争」を完成。これは香港返還を期に謝晋さんは次のように語っている。「私は監督するにあたって、『阿片戦争」の歴史的真実を描き、民族として二度とあの轍を踏まぬという願いをこめて作った。150年前の中国社会は封建的で愚昧、硬く閉ざされた、尊大にしてうぬぼれの強い状態だった。中国とイギリス軍の衝突は、単に武力の衝突だけではなく、二つの異なる文化、東西文明の衝突であり、異なる社会制度の衝突でした」と語った。この映画は中国人のプライドが濃厚に出た作品で、スペクタクル巨編だった。

 
こんな風に見ていくと、1923年生まれの謝晋さんは60年代から上海映画で頭角を現し、中国文化革命前、革命後の中国激動期、それに現代まで抜群の語り口でヒット作を作り続けたヒット・メーカーだったが、印象に残るのは文革を生き抜く中国人の姿を力強く描いた作品のような気がする。(合掌)