アレクサンドル・ソクーロフ

 ソクーロフの素敵な映画を見た。「チェチェンへ アレクサンドラの旅」である。チェチェンに派遣され、ロシア軍の駐屯地で勤務する孫を訪ねる祖母のまなざしで見た、チェチェン訪問の顛末、戦場の実情といったらいいだろうか。祖母は兵士と同じテントに泊まりながら、若い兵士や現地の人たちとも親しくなる。戦場の荒涼とした日常が切り取られているが、そのデティルの切り取り方は、初期のソクーロフの映画のもつ生と死の交歓から「太陽」に至るデティールの積み重ねに重ね合わせることが出来る。日常性を出している分、ソクーロフの映画としては、わかりやすいかもしれない。


 さて、タルコフスキーからソクーロフロシア映画の流れなど、一度、ゆっくり考えたいが、(タルコフスキーのカンヌの最後の記者会見に居合わせたが、その後、タルコフスキー、まもなく癌でなくなった)最初に、ソクーロフの映画に触れたのは、1987年のロカルノ映画祭だった。



あの時は、台湾の楊徳昌エドワード・ヤン)が
「恐怖分子」をひっさげ、その後の「嶺街少年殺人事件」に至る逸材ぶりを見せていた。現在は南カリフォルニア大学で映画を教えているグレッグ・アラキが「夜を彷徨う三人の若者」でカルト映画っぽい味を見せ、山本政志が「ロビンソンの庭」で頑張っていた。
 


 この頃のロカルノは活気があった。トルコのユルマズ・ギュネイ、中国のチェン・カイコーアメリカのジム・ジャームッシュキアロスタミ柳町光男などをいち早く紹介していた。80年代に入ってロカルノが世界の映画祭で注目されるようになったのは、ディレクターに就任したデビット・シュトライフさんの手腕による。



 ソクーロフの映画は「孤独な声」。それまでの映画はすべてお蔵入り。ペレストロイカ路線の動きの中でアレクセイ・ゲルマン、キラ・ムラートワなど、長い間、作品が日の目を見なかったレン・フィルムの面々だが、シュトライフさんは、ソビエトに飛んで、キラ・ムラートワさんを審査員に呼び、彼女の「みじかい出会い」と「長い見送り」、それにソクーロフの映画を世界の映画界に紹介した。
 



 映画祭とは国際的なネットワークである。そこには各国から映画祭ディレクターが集まる。そこから新しい映画の波が発信される場所である。成瀬巳喜男特集も1983年にここで組まれ、世界へと発信されていった。